7代先を考える

 「どんなことも7代先のことまで考えて決めなければならない」アメリカの先住民ネイティブ・アメリカン(インディアン)の教えです。どんなことであっても、何かを決めるときには、その影響を7代先にどうなっているのかを考えなければならないというものです。

 先住民(インディアン)の権利運動の中心人物であったデニス・バンクスは「我々は、7代先の子供たちのために、今何をしなければならないか考えて行動する。今の日本は、ファーストフード、化学物質いっぱいの食品、薬害、放射能を撒き散らす原発、遺伝子組み換え食品等々、我々インディアンよりも悲惨な状況になりつつあるのに、誰も立ち上がらない。」と言葉をのこされました。

 

 

 ちょっと真面目な話になります。

 

 家族葬、墓じまい、仏壇じまい、永代供養墓という言葉などがあります。もともとは無かった言葉です。

 高齢社会、少子化、そして団塊の世代の方々がちょうど墓守りや仏事ごとに携わることが増えた年代(60代~70代)に差し掛かった頃にこれらの言葉が生まれました。

 テレビではお盆前になると、まるで『墓じまいをしましょう。面倒な先祖のお墓や法事を、子どもたちに押し付けないように、私たちで済ませておきましょう。』とでも言うかのように墓じまい、永代供養墓を勧める特集番組が放送されます。

 生活様式が多様化してきているゆえに、「子どもに迷惑をかけたくないから」、「忙しくて大変だから」という理由が多いように思います。

 もちろんそれぞれの事情にもよりますが、私はいつもこのように相談を受けると、先立って往かれた方々のことを迷惑、大変、面倒と言っているように聞こえてしまいます。

 

 

 今、失ってはいけない心が、失われつつあるように思います。私たちが「子どもたちに迷惑をかけないように」と、良かれと思ってしていることが、果たして本当にそれで良いのだろうかと問いかける必要があるかもしれません。

 大切な人との別れのご縁は、私たちに本当の意味で人生について、そして大切なことは何なのかを問いかける最大のきっかけとなっていきます。

 先立って往かれたご先祖さまを偲ぶご縁は、両親や祖父母、あるいは親戚やご先祖さま、そうした方々の眼差しの中でこの私は育てられ、「おかげさま」と感謝し、仏さまと出会わせていただくご縁を喜んでいくものです。それが、「後の者の迷惑になるから」と、自ら関係性を断っていくものが、まるで流行かのように推奨されている現状があります。

 

 

 最近では、お寺や葬儀会館もイス式になってきたので、ご法事の席で正座をする機会はとても少なくなりました。

 そのせいか、自宅でのご法事の席で非常に増えてきた光景があります。子どもや孫に対して、「足痛いやろう。くずしとき。」と、わざわざ正座をしなくてよいことを勧める大人が増えてきたことです。子どもに対してだけでなく、大人同士でもそういう声が時々聞こえてきます。

 最近は正座を長い時間する機会も無くなり、正座が難しいのは仕方がありません。もちろん本当にお足の悪い方は無理をしてはいけません。おそらく、正座は痛くてかわいそうだからと、優しさでそのように言うのでしょう。

 しかしながら、姿勢を正すことを教えていくべき大人が、わざわざリラックスしなさいと勧めるのです。「きちんとする席だけど、仏さまの御前だけど、親戚や住職一同の前だけどリラックスしてていいよ」と勧めるのは教育としてもいかがなものかと思います。優しさが何であるのかを履き違えている人が多いように思います。

 無理にでも必ず正座をしなさいという話ではありません。難しければそれなりに、こっそり崩したりしても構わないんです。子どもの将来のためにも、「きちんとする席には、このようにするのだ」と教えていくのもご法事の大切なご縁です。

 

 お寺や葬儀会館などのイスも、「お足の悪い方でもお参りしやすいように」という配慮のおかげでイス式なのです。足を組んだり伸ばしたり、大股開いたり、だらしなく座ったりと、参拝者がリラックスをするためにイス式なのではありません。注意をしていくべき大人がそういう姿勢なので、子どもさんも同じように足を組んでいるという光景も多く見られます。

「手を合わす、親の姿に 子が学ぶ」という言葉があります。恥ずかしい私の姿を見て、お子さん方が真似をしないように気をつけましょう。

 

 

 「人に恥じ、天に恥じる心を持たない、その人を畜生という」という厳しいお諭しの言葉があります。

 友人知人、先輩、上司、取引先、義理の親など…この人の前ではきちんとしておかないと恥ずかしいと感じる。それはつまり、この人の前でちゃんとしておかないと自分の評価が下がる、立場が悪くなるからきちんとしておこうということです。人間なら誰しもが持っている心です。

 でも神さまや仏さまの前では…誰も見ていないからいいやと、平気で足を組んだり、お尻や足を向ける…そういう姿を恥ずかしいと感じることがない人がいる。

 人としての大切な心とはいったい何であろうか、ということを問いかけています。

 

 

 子どもに迷惑をかけまいという理由で墓じまいや永代供養墓を積極的にしていくことで、「今は」良いかもしれません。お墓参りも法事も、「面倒なこと」はしなくてよくなります。

 でも、代わりに「おかげさま」の心もどんどんと失われていくのではないでしょうか。「多くの先人方のおかげさまで今の私がここにある。大切なあの人と出会うこともできた。多くの方々のお育ての中で…おかげさま、ありがとう」を教えられていく仏事のご縁が減っていくことが、果たして次の世代の方々にとって本当に良いことかどうか、今一度考える必要があるように思います。

 

 

 自分のこと、今のことを考えることももちろん大事です。しかし、「7代先の子どもたちのために」、私たちが次の世代の方々に何を伝えていくべきなのか、そのことを考えることも大切なことです

 子どものためにと間違った優しさで、迷惑・大変だからと仏事を無くしていくことではなく、手を合わせる私の後ろ姿を、子ども、孫たちに見せていくことこそ、本当に大事なことではないでしょうか。