昔から、四十九日法要を勤めるにあたって、
「三月(みつき、三ヶ月)にまたがってはいけない」と言われます。
たとえば4月20日に亡くなった場合、6月7日が四十九日に当たります。本来であれば6月7日頃に四十九日法要を勤めるのがふさわしいのですが、「三月(みつき)にまたがるから」という理由で5月末に勤めるという声を今でも多く聞きます。
意外なことに、これを言うほとんどの方がその理由を知らないんです。「昔から言われているから」「親戚がそう言ってたから」と。
なぜ「三月(みつき)にまたがってはいけない」と言われるのか、その答えはこうです。
四十九日が三月にまたがると、「始終苦しみが身につく」ということです。「始終(四十)、く(九)るしみが身(三)につく(月)」という単なる語呂合わせなのです。ですので、三ヶ月にまたがってはいけないという理由はありません。ただの迷信なのです。
よく考えれば月の後半に亡くなると必ず三ヶ月にまたがるので大半が該当してしまいます。
今でもこの話をよく聞きますが、気にしないようにしましょう。
また、最近は、葬儀の日に四十九日法要をお願いします、と言われることがあります。
なぜそのようなことになったのでしょうか。多くは、「親戚も遠方で(高齢で)、また来てもらうのが申し訳ない」「みんな忙しいのにまた集まってもらうのは迷惑をかけてしまう」などの理由から葬儀の当日に済ませておこうというものです。最近これを本当によく聞きます。
お寺としては、四十九日はその時に勤めるからこそ意味があると考えます。
そもそも四十九日というのは「中陰」という考え方によるものです。亡くなった日を一日目とし、七日目の初七日、次の七日目を二七日、三七日、四七日とつづき、七回目を七七日(7×7)で四十九日と数えます。初七日、二七日と七日ごとに勤める法要を中陰法要といいます(「なのかなのか」と呼ぶ地域もあります)。そして、四十九日を「中陰が満ちた」とし「満中陰」と呼びます。満中陰法要(四十九日法要)は特に丁重に勤めます。
こうした中陰の考え方はインドや中国、日本の考え方が混ざり生まれた概念ですが、古来より仏事と定着して今に至ります。
浄土真宗での中陰は、亡くなった人に「迷わず成仏しておくれ」、と無事に「良いところ」へ行けるように供養するための追善供養としては見ていません。
本当の意味で人生のさまざまなことを振り返るきっかけになるのが、大切な方との別れではないでしょうか。
毎日忙しさに追われ、自分一人の力で一生懸命頑張っているんだと思い過ごして私たちが、亡き方の願いに気づかされ、これからの本当の人生を歩むご縁を頂いていく。あらゆる情報に一喜一憂し、人の意見にコロコロと立場や顔を替え、思い通りにならなければあれが悪い、あいつが悪いと他のせいにして、文字通り「迷い」ながら過ごしているのが他でもない「この私」の姿ではないでしょうか。
亡き方は阿弥陀如来さまにいだかれて必ず仏に生まれさせて頂き、残された私たちに願いはたらいてくださる方と成られていくのです。迷っているのは亡き方ではありません。私たちの方なのです。
忙しい時代だからこそ、大切な人を亡くした今だからこそ、ゆっくりと自らの姿、人生を静観していただく。葬儀を終えてからは様々な手続きや整理に追われる日々のなかで、亡き方も、私も一人で生きてきたのではなく多くの方に支えられ多くのいのちの上に生かされていたのだ気付かされていく。そしてせめて七日ごとには家族が集まって亡き方を偲び、様々なことに思いを巡らせるゆっくりとした時間を過ごしていただく。それが中陰の本当の過ごし方です。ですので四十九日法要というものは、その時に勤めるからこそ意味のあるものです。
必ずしも四十九日法要を当たりの日にするべきということではありませんが、形式上、葬儀当日にとりあえず勤めたことにしたり、単なる語呂合わせの迷信に振り回されてあまりに早くにするようでは、亡き方の残してくださった大切な仏縁を無下にしていることになるのではないでしょうか。
迷信にとらわれて「悪いことが起きないように」と勤めるのが仏事ではなく、あらゆる迷信、意見、立場に振り回されてフラフラと迷っているこの私たちであったと気づかせていただく、そしてそんな私を救うために仏となって現れてくださった方がそこにいらっしゃるのだと見つめさせていただくのが仏事、仏教です。
こんな言葉があります。
迷惑をかけずに生きていくことが大切ではない
迷惑をかけずには生きられないと知ることが大切
口癖のように「忙しい」、「迷惑をかけると悪いから」という人こそ、仏事、仏教をちょっと見直してみてはいかがでしょうか。