境内の紅梅がキレイに咲いています。
華の世界では、梅は2月の花とされています。
定秀寺の菩提樹(写真3枚目の右)はインド原産のものですので、日本の寒さは厳しいようです。本来は常緑樹ですが、寒さで葉が茶色くなってしまっています。
しかし、きっと夏にはまた新たな緑の葉をつけてくれることでしょう。
上げ法事は「お寺でする法事」のことです
さて、時々聞かれることがあるのですが、「上げ法事(あげほうじ)」という言葉をご存知でしょうか?
答えから言いますと「上げ法事」とは「お寺でする法事」のことです。
お寺に参上し、法事を勤めることです。
「え?…三十三回忌や五十回忌の、弔い上げの最後の法事のことを言うのでは?」
そう思った方も多いのではないでしょうか。
インターネットで「あげ法事」と検索すると、「弔い上げの法事のこと」というのが多数でてきます。
弔い上げ(とむらいあげ)というのは浄土真宗では馴染みの無い言葉です。
世間一般的には、「三十三回忌や五十回忌を目処に、この先の法事はもう勤めませんので、これでお終いにします」という意味合いであろうかと思います。
弔い上げというのは、「私たちの都合」でのものの考え方です。
そもそも法事は「いつまで勤めなければならない」とかそういうことを考えるものではないのです。
その時になって、「あぁ、もうお父さんの十七回忌か」と、その時その時で亡き方を偲ぶご縁です。
地域的なものもあり、いろいろな捉え方、考え方もありますが、少なくとも浄土真宗では、弔い上げという考え方はありません。
上げ法事 = お寺でする法事 = 最も丁寧なお参り
なぜ、「上げ法事」が「弔い上げ」と言われるようになったのか。
諸説ありますが、私はこのように考えます。
①昔、A男さんという方がいました。
A男さんには、「もう親父(B蔵)の三十三回忌か。年齢的にも次の五十回忌は私は勤めることができんだろうから、『私にとっての最後』として親の三十三回忌は、どうか最後にお寺の如来さまの前で勤めさせてもらえませんか。」という篤い思いがありました。(法事は自宅で勤めるのが多かった)
②やがてA男さんも亡くなり、息子のC郎さんが毎年A男さんの法事を勤めるようになっていきます。
③A男さんの三十三回忌を迎える頃、C郎さんは「そういえば、じいちゃん(B蔵)の法事は三十三回忌までだったな。あの時はたしかお寺で法事をしたなぁ。じゃあ親父(A男)の法事もこの三十三回忌でおしまいなんだな。お寺で法事をすればいいんだな。」と考えます。
④こんな具合で、「法事のお終いは三十三回忌までで、お寺でするもの」と勘違いされるようになり…
⑤「上げ法事とは、三十三回忌で弔い上げのこと。これで終わり。」という意味に捉えられるようになってしまったのではないでしょうか。
↑これは私の勝手な想像です…。
でもこんな風にきっと、「三十三回忌を区切りとして、最後には丁寧に上げ法事(お寺で法事)をしよう」というのが、「上げ法事=三十三回忌の弔い上げ」といわれるようになった理由なんじゃないかと思います。
お寺のことや仏事などでは「上がる・上げる」という言葉がよく使われます。
- お寺の本堂に上がる。
- ご本山にお参りすることを「上山する」といいます。
- お供えものを仏さまにお上げする。(上供する〈じょうぐ〉)
- お経をお上げする。
- お焼香をお上げする。(頭に頂くことではなくお香を焚くこと)
これらの「上がる」というのは尊敬語のひとつです。
お寺は、古くは山や高い所にあることが多かった時代があります。
「上がる」というのは高い場所という位置的なものとして、(あそこの山にある)お寺に上がる、と用いられていたとも考えられますが、どちらかというと、尊敬の意味を込めての「上がる」という意味だと言われています。
東京に行くことを上京するといいますが、これは天皇陛下の住まわれている都に参上するという意味の尊敬語(謙譲語)であると言います。(ちなみに京都に向かうことは上洛〈じょうらく〉といいます)
同じようにご本山へ向かうことを「上山する(じょうざん)」といいます。
「上げ法事」というのも、「お寺へ参上する」というところからその意味はきていると考えられます。
インターネットの情報サイトやQ&Aなどで、ひどいものの中には、「上げ法事は弔い上げのことで、お寺で、親戚は呼ばずに兄弟や身内だけでする法事。会食や茶の子(参列者に配るお志のこと)は無し。簡単に勤める法事」と紹介されているものがありました。
もちろんこれは間違った情報です。
「上げ法事は、お寺で簡単にする法事。粗末な法事。」と紹介されているのです。
これはあり得ないことです。
むしろ「お寺で勤める法事は、最も丁寧なもの」であるべきものです。
「上げ法事」は「弔い上げ。三十三回忌の法事。これでお終いにする法事」という意味ではありません。
あくまでも「お寺で勤める法事」のことで、そこには「お寺の如来さまの前で是非とも勤めさせて下さい」という、篤い心があるものです。
決して粗末に勤めるものではありません。
お寺にお参りすることが粗末でもありません。
これでお終い、さようならとお参りするものでもありません。
盛大に、大人数で法事を勤めましょうという話ではありません。
緊張してかしこまってお参りしましょうという話でもありません。
お寺にお参りするご縁は、大切にして頂きながらお参り下さい。
梅の花
ところで、今年の冬は各地では大きな災害となるほどの寒さ、大雪でした。
松山では有り難いことに、大雪になることもありませんでした。
しかし、「これだけの寒さだったにも関わらず」、梅の花はキレイに花を咲かせました。
…と、思っていたら違うんですね。
梅の花には、「寒さが必要」なんだそうです。
夏につけた芽が休眠期間を経て、春に花を咲かせます。
寒さが必要というのは、間違って秋に目を覚まして花を開かないように、ある程度の気温まで下がらないと目が覚めないのだそうです。
雪の降るような真冬の寒さが続いて、ようやく目を覚ました後に少しずつ温かくなっていくと、梅はその花を咲かせていくのです。
昔、この話を教えてもらった時には、とても感動を覚えました。
…綺麗な花を咲かせていくためには、寒い冬が必要である…。
そんな梅の花からは大切なことを教えられるものです。
暖かいだけであれば暖かいことの「良さ」には気づきにくいものです。
寒い冬があるからこそ、春の訪れを喜びます。
幸せであることは不幸という現実があるからこそです。
もっと言えば、幸せであると感じることができるのは、嫌なこと、辛いことや悲しいことを経験してきたからこそではないでしょうか。
受験で合格することが嬉しいのは、不合格という現実があるからこそです。全員合格するのであれば、合格の喜びはそこには感じられないものです。
生きること、命あることの尊さとは、実は、死があるからこそです。
もし死というものが存在しなければ、命のありがたみはありえません。
大事な人との別れは悲しいものです。
でも、その現実を通して様々なことに気づかせて頂く、教えて頂くご縁のひとつが「ご法事」や「葬儀」なのです。
「良いこと」ばかりではないのです。
嫌なこと、辛いこと、悲しい出来事にも出会っていかなければなりません。
不都合なものに出会ってこそ、その先にある喜びに出会える、気付いていくのではないでしょうか。
梅の花と同じように、寒さもまた、私たちにとっても必要なものなのかもしれません。
次号へ続きます
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荒本忠教 (月曜日, 12 3月 2018 03:14)
いつも大変お世話になっております。
今回も大変大事なお話しを承りました。
上げ法事、とはの意味よく理解できました。私の身近なところでも間違った解釈をされていると思います。私事ですが、この年になっております、今更ながらお聞きする訳にも、、、、と思っている事の一つでした。このお話は、定秀寺様の門徒様に、
ご理解いただければいいですね。
境内の紅梅いいですね。気持ちがなごみます。貴重なお話をありがとうございました。本日からの 春季彼岸会 お聴聞させて頂きます。年寄りが夜ふかししています。ラジオ深夜便、聞きながらやすみます。
ありがとうございました。
住職 (金曜日, 23 3月 2018 16:25)
この度の彼岸会もようこそお参りくださいました。
気づけばいつの間にか暖かくなってきました。
上げ法事の言葉のように、意外と知られていない言葉や間違った意味で捉えられている言葉というのが仏事には多いように思います。
「今更ながら聞きにくい」という言葉も、むしろ是非お尋ねください。こちらも次回のお話の参考になります。
更新が遅くなってしまってますが、またいろいろと書かせて頂きますのでご覧頂ければ幸いです。